執着は、なぜ良くないのか?執着の正体とは

哲学×心理学

「執着」はあらゆるところで、気づかず起きているし、よく執着の話が取り上げられる。

元彼が忘れられなくて、元彼に執着してしまい、次の恋へ進めない。

今彼に執着してしまい、嫉妬ばかりしてしまう。

浮気されたことが許せず、その出来事が忘れられず執着してしまう。

執着は人にだけじゃなくて、ものやお金にもおこる。

ブランド品ばかり集めることに、執着したり、お金を稼ぐことばかりに執着したり、時には、自分が起こした出来事に執着して、そのことが四六時中頭から離れないこともある。

師匠である根本さんのブログで、執着と試しに、検索してみたら、365件くらい記事もありました・・。 みんな困っている。

そう、執着は本当に辛いし、自分で気づいても、なかなか気持ちが切り替えられないし、

私も、辛い思いをしたことが多々あるし、みんなも必ず経験する気持ちだと思う。

実は、大昔(5000年くらい前)から、この「執着」という概念があって、インドのお話だけでなく、キリスト教、仏教など、他のお話の中でも、神さまは、「執着はよくない。それを止めてください。」と無執着を助言している。

今日は、そんな5000年の時を超えても、苦しめられる、根深い、執着に関してのお話を紹介したいと思う。

★★★

「執着」は、物について、人について、自分の身体について出ると考えられている。

執着がでると、問題がでます。

そして、普通の人は、執着と愛とを一緒にしており、執着がないと愛することもできないと考えている。

執着があると、何が問題なのか? それは障害になる。

例えば、雲がかかると、太陽が見えなくなる。その雲が「執着」である。太陽と雲をイメージしてください。雲が少しあっても、太陽はたくさん陽光を注いでいます。しかし、雲は、少しだけでも、太陽を隠すことができます。それと同じで、執着は、少しだけでも、大きな本来の心を曇らせ、隠してしまいます。

もう少し説明すると、執着は、一時的なもの。執着の対象は、自分の身体、他人の身体、食べ物、飲み物、服、建物、などたくさんあって、時には小さいものまで対象になる場合もある。

その例えとして、こんなお話が語り継がれている。

バラタという聖者がいました。バラタは、鹿に赤ちゃんが生まれたので、いつもその赤ちゃんの面倒をみていました。赤ちゃんから離れると、とても心配になるほどに。ある日、バラタは亡くなる時に、その鹿の顔を見ながら亡くなった。神様のことを忘れて、鹿のことを考えて亡くなった。だから、その鹿への執着の結果として、バラタは来世で鹿の形で生まれた。しかし、鹿になっても、人間であった前世で、たくさん修行をしたので、100%その記憶を失ったわけではなかった。そのため、自分は最終的に鹿の赤ちゃんをとても好きになり、それに執着して、この状態(鹿)になったことを思い出した。だが、鹿も永遠ではない。だから、鹿で亡くなったとき、来世ではとても気をつけるようにした。その結果、バラタは、次の生まれ変わりで、とても有名な聖者になった。

一時的なものを好きになると、永遠のものを見ることができない。

それが執着の問題である。

執着の対象は、とても小さいけど、その「小さいものが、大きい大切なものを隠す」

本当は、物が問題なのではなく、問題は心の考えである。

物があります、人がいます、それが執着の原因ではなく、心の考えで執着になっている。

★★★

私なりの解釈だと、昔の人は聖者になることが、自分の人生において、一番大切なことだったから、「鹿」という目の前の「小さいもの」に執着しすぎて、「もっと大きな」自分の人生が見えなくなってしまった。だから、執着は良くない。 ということだと思う。

最近は、私がインドで学んだ哲学の話を主に書いているけど、哲学と心理学はよく似ている。きっと、大昔の人が考えた哲学を、色々な人が今の文化や時代にあう形に、なおして、わかりやすく説明して、語り継いでくれているのかな。

そう思うと、カウンセラーは、その時代にあった形で、人々の心を支える方法を提案する魔法使いであり、語り手だなと思う。そんな風に、人の心を助けていきたい。

そんな、長年、人々が悩まされている、執着に関するお話でした。

それくらい、「執着」とは、手ごわいものだから、みんなで、心してかかろう!

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