「想い」が習慣となり、私たちを造る

その他

よく、幸せとはなにか?なんのために生きるのか?と漠然とした不安を抱くことがある。

私が勉強しているヨガ哲学では、こんな風に考える。

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満足とは何か?

お金をたくさんもらうこと?

きれいになること?

美味しいものをいっぱい食べること?

名誉を得ること?

お金を得られても、綺麗になっても、おいしいものをたくさん食べても、

「欲しい“もの”」がすべて手に入っても、満足は一時的。

私たちが、「もっと」と思うのは、私たちが本当に探している「幸せ」が違うものだから。

生活の中での幸せ、お金や、外見や、名誉など、私たちが普段、嬉しいと思うことを感じることも、もちろん良いことだけど、

その生活(=見たり、聞いたり、触ったり、してわかる物質的な世界)から、「超えた」ところにある幸せに気づくことが、本当の幸せだと言われている。

私たちは、普段、自分自身が、幸せと感じることに、完全に満足できずに、「もっと、もっと・・」といつも思ってしまう。

そんな自分は本当は何を探し求めているのか?

この答えがわからないと、いつまで経っても満足できないし、幸せにもなれない。

それは、「ない」ものばかりに目を向けて、「ある」ものに目を向けられないことにも繋がる。

だけど、「幸せを感じることは、”物質的なもの”だけではない」と頭ではわかっていても理解するのは難しい。

私たちは、よく「わたしの〇〇」という言葉を口にする。

ヨガ哲学では、「わたし“の”」は“エゴ”だと考えられる。

「わたしのもの」は、すべてエゴ。

「すべてわたし」は、“真実”だと。

この言葉は、本当に深い。

「わたし“の”」時間、パートナー、子供、感情、お金・・・

後にくる言葉はたくさんあるけど、掘り下げて考えていくと、それらは、巡り巡って、一時的に、「わたし“の”」もとに在るだけで、また巡っていくもの。

「すべてわたし」は、“真実”

出会う人や、今自分の周りにいる人は、自分と意識レベルが同じで、鏡だともいわれる。

そして、自分の感情や、環境、お金も自分が作りだしているものだから「すべてわたし」

それは、私たち自身にも同じことが言える。

そのことを、全く知らずにいるのと、脳で理解し、心で解って、その思考が習慣となり、日常的に無意識に内側で、想っているのとでは、同じ人生を送っていても、見えるものも、感じるものも違ってくる。

目には見えないけど、どう想いながら生きるか、何を想いながら生きるかで、

エゴの道を選択しているのか、真実の道を選択しているのか、変わってくる。

真実とは、私たちの人生を内面から豊かにしたり、内側から幸せにしてくれるものだから。

仕事、趣味、家庭で、“今”を一生懸命に生きているからこそ、その“時間”や“物質的なもの”を超えるってどういうことなのか?幸せの感覚って何なのかを、体験してみたい。

私は、そのために、ずっとヨガをしています。

というわけで、モニターも募集しています!笑

宣伝のための、怪しい文章ではございません。まじめな哲学のお話。

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